明智 光秀 の 嫁。 桶狭間の戦いのとき明智光秀は何をしていましたか?

明智光秀の最後の地と日付!人質となり死んだ母親の命日に信長殺害?

明智 光秀 の 嫁

明智光秀は、母親の命日に「本能寺の変」を起こした? 光秀が本能寺の変で「織田信長」を殺害した動機・・・「母親の復讐」という説が存在しています。 1579年、明智光秀は難攻不落の山岳地帯「丹波国」を攻略し、信長に絶賛されています。 この丹波攻略の最中、「波多野秀治」という丹波国の豪族が、当初は光秀の味方をしていたのですが、突然光秀を裏切っています。 この波多野秀治が治める「八上城」を、光秀は攻略。 そして波多野秀治は降伏を決意し、安土城の織田信長に謁見することを約束したのでした。 安土城へ行く際に、「波多野秀治の安全」を保証するために、光秀は自分の「母親」を、人質として八上城で預ける事となったのです。 信長は、光秀の母が人質となっていることを、知っていたにも関わらず、裏切り者の「波多野秀治」を殺害してしまいます。 《織田信長》 「引用元より」 主君を殺されたことに激怒した波多野一族は、光秀の母を磔にして殺害。 現在の兵庫県・八上城には「はりつけ松」といって、光秀の母が磔にされたと伝えられる「松」の跡があるのだとか・・・。 この松の跡・・・・なんど植え替えても枯れてしまうと言われているようです。 この母親の命日が「6月2日」。 本能寺の変も「6月2日」。 明智光秀は、織田信長討伐の名目を「母親の仇」を主張したかったのかもしれません。 実は、自分の正当性を主張するために、その命日に「仇討ち」を実行するというのは、日本の歴史では結構よくあることなのです。 例えば、有名な「忠臣蔵」では、月は違っても主君「浅野内匠頭」の月命日に、仇の「吉良上野介」の家に突入して、これを討ち果たしています。 「足利尊氏」は、重臣「高師直」の仇である実弟「足利直義」を、その命日に毒殺しています。 光秀も、「母の仇討ち」のため、その命日に「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?.

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明智光秀の領地と石高をカンタン解説!動員兵力は2万人で重税だった

明智 光秀 の 嫁

産まれたときから死ぬまで、謎多き人生を送ったと言い伝えられている戦国武将・明智光秀。 生年月日や生まれた場所も不明なら、織田信長に仕えるまでの経歴さえ幾通りも伝えられています。 信長に仕えてからは光秀に関する数多くの史料が残るため、その功績をうかがい知ることができますが、本能寺の変によって謀叛人のレッテルが張られたため、その最期や妻子の行く末については正確に伝える史料が残ることはありませんでした。 その中で不遇であったと言われる光秀の前半生を支え、光秀が織田家の重臣になるまで励まし、ともに歩んだ光秀の正室・煕子(ひろこ)に関しては伝聞も含めて史料が残っており、人間・明智光秀を知るための貴重な資料にもなっています。 今回は 明智日向守光秀の正室であった煕子の生涯を紹介したいと思います。 明智光秀の正室・煕子 光秀の正室・煕子の正確な生年を伝える資料はなく、伝聞で享禄3年(1530年)生まれと言われています。 父は織田信長の家臣・妻木広忠 (つまきひろただ)または弟の妻木範熙のどちらかだと伝えられていますが、この二人には同一人物説もあり、妻木氏出身であるのは間違いないようです。 (妻木氏はのちに明智氏の与力となりその後、家臣となります。 ) 天文4年(1545年)に光秀に煕子が嫁ぐことが決まりましたが、 この頃煕子が疱瘡にかかり、美しいと言われた顔に痘痕(あばた)が残ってしまいます。 この輿入れを破談にしたくない妻木氏は煕子の痘痕が光秀に嫌われることを気にして、 煕子に似ていた妹・芳子(よしこ)を身代わりに立てますが、これを簡単に見破った光秀は煕子を正室として迎えました。 二人が結婚してすぐに 斎藤道三が息子の龍興に攻め滅ぼされ、道三に味方した光秀は美濃を捨てて流浪します。 流浪中でお金のない光秀は歌会を催す資金がなく困っていると、 煕子は自慢の黒髪を売ってお金を用立てて光秀を助けたと言われています。 この頃の織田家は東西南北すべてで敵と事を構えており、その上内部にも本願寺という最大の敵を抱えて織田家の武将は多忙を極めました。 丹波攻略を行いながら本願寺との戦闘にも参加していた明智光秀はこの年過労で倒れ危篤状態にまでなるものの、煕子の献身的な看護で持ち直し、二ヶ月後には前線復帰を果たします。 しかし、不眠不休で看護を続けた煕子はこの時の心労と疲労で倒れ、そのまま息を引き取ったと言われています。 享年46歳(36、42歳という説もあり)、お墓は滋賀県大津市にある明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺にあります。 明智光秀は煕子が存命中は側室を置くことなく、三男四女仲睦まじく夫婦生活を送ったと言われています。 後世にまで伝えられた煕子の内助の功 光秀と煕子に関する逸話は江戸時代に創作された話とも言われており、信憑性の高い史料にこの記述が残っているわけでもないため、真偽については不明です。 ですが、後世に作られた話であったとしても、謀叛人と言われた明智光秀と妻・煕子の逸話がなんとも微笑ましく、心暖まる夫婦付随の話であることが、謎の多い武将・明智光秀の人間的な一面を表しているようで非常に興味を引かれます。 武将としても、為政者としても優秀であった明智光秀は夫婦生活の面においても一流人であったのかもしれません。 なお、 黒髪を切って光秀を支えた話は紀行文「奥の細道」を書いた俳聖・松尾芭蕉(まつおばしょう)が「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」と句にも詠んでいます。 煕子には天正10年(1582)年、坂本城落城時に自害したとの説もありますが、煕子が本能寺の変の前に亡くなっている方が、煕子にとって幸せだったのではと思うのは私だけではないと思います。

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明智光秀の妻(煕子)との逸話やエピソードとは?濃姫との関係と、ゆかりの城跡について!

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おそらく、明智光秀は『遊行三十一祖 京畿御修行記』にある「長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とあるように、越前に住んでいたと思われます。 なお、越前朝倉家に仕えていたという信憑性の高い史料はありません。 また、光秀の初出史料は、2014年10月3日に熊本県立美術館と熊本大、東大が発表した「信長「幻の上洛」、大名離反で頓挫 裏付ける書状発見」に関連して発見された『米田家文書』「針薬方」の記述です。 birさんの回答にある「上洛を目指す足利義昭が織田へ送った使者として」とあるのは、細川藤孝宛織田信長書状が2通残されているからです。 その2通に「明智」という姓だけが書かれた人物が登場します。 その書状には、日付しかなく年が書かれていません。 その為、谷口研語氏は2014年5月28日に発行された著作の中で、その年をともに「永禄十一 1568 年」とされました。 その後、芝辻俊六氏・桐野作人氏は、そこに書かれている信長花押から、その年をともに「永禄十二 1569 年」とされています。 さらに、『永禄六年諸役人附』という室町幕府の役人名簿には、 前半部分の義輝時代の物には、光秀の名前はありません。 そして、後半部分の義昭時代の物の中に足軽衆として「明智」というこれまた姓だけの人物が登場します。 この足軽衆の「明智」が光秀であるということは、多くの歴史学者・歴史研究家が支持しています。 これらのことから、『米田家文書』「針薬方」にある記述が光秀の初出史料として注目されました。 そこには、姓だけでなく「明智十兵衛尉」とハッキリと書かれています。 よく間違われるのが、 『米田家文書』「針薬方」に書かれている「明智光秀の高嶋田中城籠城」の時期を、 永禄九 1566 年十月二十日とされる点です。 それは、『米田家文書』「針薬方」には、籠城の時期が書かれていないからです。 この『米田家文書』「針薬方」で分かるのは、 明智光秀が、永禄九 1566 年十月二十日以前に、高嶋田中城に籠城したということです。 それは、永禄九 1566 年であったかもしれませんし、それ以前であったかもしれません。 そして、『遊行三十一祖 京畿御修行記』には光秀が朝倉家に仕えたとは一言も書かれてはいません。 ただ、越前長崎称念寺門前に十ヶ年住んだと書かれているだけです。 光秀が越前朝倉家に仕えていたというのは、あくまでも後世に書かれた信憑性が低い軍記物にあるだけです。

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