あるがままの心で。 心理学ワールド 87号 「あるがまま」の心理学 セルフ・コンパッションと「あるがまま」

いきものがかり 心一つあるがまま 歌詞

あるがままの心で

はじめに セルフ・コンパッション(self-compassion)は,直訳すると自分への慈しみ,または自分への思いやりとなるが,compassionにはより多くの意味が込められているため,カタカナでセルフ・コンパッションと訳している。 セルフ・コンパッションは,仏教伝来の概念で,私たちに幸せのあり方を教えてくれるし,それを実践することで『あるがまま』を受け入れられるようになる。 近年は,基礎研究や臨床研究も盛んに行われているが,ここでは『あるがまま』の捉え方に注目して説明をしたい。 『あるがまま』と『こうありたい』自分 『あるがまま』とは,どんな心理を表しているのだろうか。 もし『あるがまま』を体験したとしても,言葉にして表すことは難しい。 一方で,『あるがまま』でない経験,すなわち何かの振りをした経験はすぐに思い出せるだろう。 例えば,自己紹介の場面でどんなことを話すのかイメージしてみてほしい。 実際のところ,自己紹介は自分の姿をよく見せるために,自分の良いところを都合よく取り出して話す行為であり,『あるがまま』の自分自身をさらけ出すことはしない。 自己紹介に限らず,我々は確固たる「私」という固定概念を作って,『こうありたい』『こうあるべき』自分として振る舞っている。 『こうありたい』『こうあるべき』自分自身は,頭の中で作り上げられたもので,ちょっとしたことで崩れ去ってしまう。 発表をするとき,格好の良い姿を見せたいと思って頑張っていても,他者のちょっとしたネガティブなしぐさに気づいたらどうだろう。 人よりも優れた成績を残せたと思って自信を持った数日後に,他者がさらに優れた成績を取ったと分かったら,どんな気持ちになるだろう。 いずれの場合も,『こうありたい』自己像はもろくも崩壊し,自信や自尊感情は低下してしまう。 さらにやっかいなことは,そこから怒りの感情が湧き起こり,私たちを苦しめるのである。 「なんてなさけない」など自分のふがいなさに対して腹を立てることもあれば,「どうしてほめてくれないのか,なぜ自分の良さが理解できないのか」と認めてくれない他者に腹を立てることもある。 容姿や成績で自分を圧倒してくる他者に対しては,嫉妬していじめたり排他的な態度を取ることもあるし,親密な対人関係だとより強い怒りを感じ「どうして(自分が思うようにもっと)愛してくれないのか。 許せない」と恨みや憎しみを抱き,復讐心につながることもある。 しかし,そのような怒りを他者にぶつけることはできない。 結局は,過去の自分のやり方を振り返って自分を責めるしかなくなり,より深く落ち込んでしまう。 仮に『こうありたい』自分自身の姿を追い求めて達成できたとしても,それは一瞬の喜びが生じるだけのことである。 夢のかなった一瞬が過ぎ去れば,次の瞬間からまた絶え間ない努力や競争を求める世界が待っており,将来のことを考え続けることになる。 『こうありたい』自分になるように努力しなさい,と言われることがあるが,言われるがまま振る舞えば,いずれは怒りや不安で疲れ果ててしまうだろう。 真面目で努力家と言われて社会的に評価されている人が,うつ病などの精神疾患に罹って苦しむことがあるのがその一例である。 『こうありたい』自分を追い求めると不幸になるのなら,どう振る舞えばよいのだろうか。 もし,何もせずに今現在の『あるがまま』の自分自身を受け入れることができれば,心は穏やかになるだろう。 しかし,自分の良い部分や気持ちの良い感情の『あるがまま』は受け入れることができそうだが,負の側面の『あるがまま』については不安や怒りや落胆を感じるため,かなり難しい課題となる。 例えば,自分の課題や問題点について自分で認識するのも,人から指摘されるのも苦痛である。 そのため,見て見ぬふりをしたり,考えるのをやめるために,過度に酒を飲んだり遊んだりすることもある。 また,ライバルに嫉妬を感じ,「あの人なんていなくなれば良い」と思ったとしたら,そういう感情を持った自分を恥じたり罪悪感に苦しむこともある。 自分のポジティブな側面もネガティブな側面も,そのありのままを受け入れることは,簡単なことではない。 『あるがまま』とセルフ・コンパッション 自分自身を負の側面も含めて『あるがまま』に受け入れるには,そのための心のありようが必要となる。 それが,セルフ・コンパッションである。 セルフ・コンパッションを理解するには,まず他者へのコンパッションを思い出すと分かりやすい。 親しい人,愛する人が困っているときのことを想像してみてほしい。 その人を批判したり怒ったり,悪い結果だけに注目して悲しみに浸って一緒に落ち込むようなことをしないだろう。 その人の様々な感情や思考を受け入れ,そうした経験が人間である以上避けようのないことを理解し,その苦しみから解放されるように慰めたり,手助けをするに違いない。 コンパッションは,困っている人を見たとき,その苦痛を何とかしてあげたい,苦しみを取り除いてあげたいと自然と湧き起こってくる感情のことである。 コンパッションを感じているときには,援助に際して見返りを求めたり,相手への愛情が深ければ助けてあげるといった条件がなく,清らかな無償の愛のみが存在する。 他者へのコンパッションを自分にも同じように向けると,セルフ・コンパッションとなる。 すなわち,セルフ・コンパッションは,自分にとって困難な状況において,自分に優しい気持ちを向け,そのときの経験を良い,悪いと判断することなく受け入れ,そうした経験が他の人たちと共通していることを認識することである。 アメリカの心理学者のクリスティーン・ネフ博士が,自身の瞑想の経験から,セルフ・コンパッションを概念化し,Self-Compassion Scale(SCS)という心理尺度を開発している(Neff, 2003)。 SCSは,自分への優しさ,マインドフルネス,共通の人間性というポジティブな側面と,それぞれの対極である自己批判,過剰同一化,孤独感というネガティブな側面から構成される(表1)。 日本語の項目は,有光(2014)を参照されたい。 アメリカでも日本でも,その他の国々でも,セルフ・コンパッションが高いと,不安や抑うつが低く,幸福感が高いことが明らかにされている。 一方で,セルフ・コンパッションが低い人の『こうありたい』『こうあるべき』という自分の姿は,非常に厳格な人物である。 セルフ・コンパッションが低い人は,困難なことがあっても自分に優しい言葉をかけるなどもってのほかで,厳しい態度で臨むほうが良いとか,そもそも自分などは大切に扱うべきでないと考える傾向にある。 その結果,困難な状況でも自分自身を労わることはせず,自分を批判的に見て厳しい言葉をかけ,結果的に不安や怒りや悲しみといった感情に圧倒されてしまう。 また,自分だけがこうした苦労をしている,誰も助けてくれないといった考えにとらわれ,他者から孤立した状態にある。 自分と他者を区別して,人を助けることはしても,自分を助けることはしない。 その中には,自分の気持ちを押し殺して,自分のことを後回しにして,ただ人のために尽くすことを美徳とする人もいる。 しかし,人のことだけを気遣い,感情を抑制して生活していると,自分が何をしたいのかすら分からなくなり,落ち込みやすくイライラしやすくなる。 家族のため,会社のためにと思って働いても,『こうあるべき』自分を演じながらやっていると,「やらされている」ような状態で本来の力が発揮できない。 自分を責めたり,相手を怒鳴ったりして苦しむだけでなく,失敗を重ねて迷惑をかけたり周囲の人を心配させて,結果的にお互いに不幸になってしまう。 セルフ・コンパッションを高める方法 自分自身の優しい友人になり,慈しみを自分自身に向けると,暖かく,穏やかで,安心感にあふれたセルフ・コンパッションを経験できる。 セルフ・コンパッションを高める方法はいくつかあるが,ここでは慈悲(慈しみ)の瞑想を紹介したい。 慈悲の瞑想は,自分や他者の幸せを願い,自分や他者が苦しみから解放されることを願う仏教伝来の瞑想法である。 「私が幸せでありますように」(慈悲の「慈」,loving-kindness),「私の悩み苦しみがなくなりますように」(慈悲の「非」, compassion)という慈悲のフレーズ(表2)を,自分に,また他者に向けて放ち,包み込んでいくのが慈悲の瞑想(loving-kindness and compassion meditation)である。 「自分が幸せでありたい」「他者も幸せであってほしい」という慈しみの気持ちは,誰しも持っているが,『こうありたい』『こうすべき』自分によって否定されたり,意識されなくなっている。 慈悲の瞑想によって,これまで埋もれていた慈しみを培い,自分や他者に対する心地の良い,温かい気持ちを育むことができる。 慈悲の瞑想の実践は,まず自分自身の幸せを願うことから始める。 身体をリラックスさせ,四つのフレーズを,心地が良いと思う間隔で繰り返す。 もし気が散ったとしても,思考や感情だとただ気づいて手放し,またフレーズの繰り返しに戻す。 温かく,優しい感情が湧き起こってくることがあるが,それも心に留めておき,フレーズの繰り返しに戻す。 慣れてきたら,少しずつ対象を恩人,親しい人,中性の人(ポジティブ感情もネガティブ感情も抱かない人),嫌いな人,生きとし生けるもの……と拡張し,「私の恩人も,親しい人も,知らない人も,嫌いな人も,私を嫌っている人も,生きとし生けるものすべてが幸せでありますように」と願う。 詳しい実践法は,Salzberg(2011)などを参照してほしい。 人間関係のさまざまなトラブルで深く悲しむことがあったとする。 頭の中は「こうしたかった,これができない私がダメだ,もう何もできない」と自分を責める声でいっぱいで涙が出てくる。 そうしたときに,慈しみを持った自分自身をイメージして,悲しんでいる自分に対して「すごく落ち込んで涙が出るんだね。 その気持ちはよくわかるよ」と理解を示すような言葉で包み込み,優しく抱きしめる(図1)。 そして,2,3回優しく呼吸をしてから呼吸のリズムに合わせて「私が悲しみから解放されますように」「私がダメな人間とか,間違っていると考えることなく,この痛みを受け入れられますように」「私の思考が慈しみの思考になりますように」といった自分で選んだフレーズを繰り返す(慈悲の瞑想)。 瞑想中に,様々な身体の感覚,穏やかな気持ちになる瞬間に気づくことがあるが,そのとき「悲しみ」や批判的な考えを手放せていることにも気づく。 これは,困難な感情でも,セルフ・コンパッションを高めることで『あるがまま』の自分を受け入れることができる例である。 怒りが癖になっている人は,慈悲の瞑想中でも悪いところを探して「しまった。 集中ができていない」「優しい気持ちなんて感じない」といったように,『こうありたい』自分からずれて怒り,「瞑想だから怒ってはいけない」とまた怒る傾向にある。 「怒っている」という『あるがまま』の自分を受け入れるときにも,悲しみの場合と同じように,「怒っている」自分自身に気づき,「私が穏やかでいられますように」「怒りやイライラが,私のこころに起こりませんように」といったフレーズを使って慈悲の瞑想ができる。 セルフ・コンパッションから『あるがまま』の受容へ 図1 自分をやさしく抱きしめる セルフ・コンパッションが高まると,様々なことに気づいて受け入れられるようになり,本当に自分のためになっているもの,喜びや幸せ,命を培っているものに意識が向いてくる。 親しい人,愛する人,また自分を育ててくれた自然など,感謝や幸せを感じる対象がどんどん増えてくる。 そして,愛する人や動物やモノや自然をちゃんと大切に愛する時間が貴重であることが分かってくる。 様々な人に慈しみの気持ちで接することができるようになり,他者からも慈しみで接してもらえるようになる。 例えば,他者の幸せを願いながら話しかけたり,手助けをすれば,その人たちとつながって支え合って生活ができる。 それは,お互いに幸せが感じられる瞬間であろう。 慈しみは自分や他者や知らない人たち,あまねく生命を差別することはなく,すべてを受け入れる感情である。 自分自身から生きとし生けるものにまで慈しみの気持ちを広げると,私たちが最終的には生命をもつ存在であるという点ですべては共通していて,お互いに『あるがまま』を認めて支え合っていくことが,幸せの形であることが理解できる。 有光興記(2014)セルフ・コンパッション尺度日本語版の作成と信頼性,妥当性の検討.『心理学研究』 85 , 50-59. Neff, K. (2003)The development and validation of a scale to measure self-compassion. Self and Identity, 2 , 223-25. Salzberg, S. (2011) Real happiness: The power of meditation: A 28-day program. Workman Publishing. [有本智津(訳)(2011)『リアルハピネス 28日間瞑想プログラム』アルファポリス].

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「あるがまま」と「純な心」の講義について

あるがままの心で

私はこのたび基準型学習会の講師を務めることになっている。 単元は「あるがまま」と「純な心」である。 生活の発見会には「新版森田理論学習の要点」というものがあり、それに沿って講義するようになっている。 要点の項目は、あるがまま、純な心、感じ、恐怖突入、共感と続いている。 さらに補足版で「あるがまま」と「純な心」がある。 あるがままと純な心はよいのだが、それ以降の項目との関連づけがとても難しい。 かえってこれ以外で大切な項目が抜けているような気がしている。 10日ぐらい前から講義内容の準備を進めてきたが要点を基準にするととても難しいと思っている。 納得できるような講義内容ができないのである。 そこで独自に項目を設定してみた。 皆さんのご意見を聞きたいのである。 1、「あるがまま」の能動的側面についての説明。 この中で不安と欲望との関係。 バランス、精神拮抗作用、手段の自己目的化、恐怖突入の話をする。 2、「あるがまま」の受動的側面についての説明。 このなかで、不安にはコントロールしなければいけないものとしてはいけないものがある。 事実を認める。 受け入れる。 服従するとはどういうことか。 あるがままの受動的側面を阻害している3つのものの説明。 認識の誤り、「かくあるべし」、他人中心の生き方。 次に事実に服従するにあたって注力すべきことの説明。 観察する。 具体的であること。 両面観で見ること。 事実は4つに分けて考えること。 3、感じの発生、感じを高めるということはどういうことか。 4、「純な心」とはどういうことか。 トレーニングシートを配布して考えてもらう。 5、「私メッセージ」の発信。 トレーニングシートを配布して考えてもらう。 以上5項目を1時間という時間で説明する。 後質疑応答で深めていく予定です。

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あるがままを受け入れる 「変えられないこと」ではなく「変えられること」に目を向ける

あるがままの心で

当代随一の経営者・稲盛和夫が、よりよく生きるための心のありようを綴る。 「生き方」の続編。 【「TRC MARC」の商品解説】 ミリオンセラー『生き方』待望の続編が、15年の時を経て刊行! すべては〝心〟に始まり、〝心〟に終わる。 人生で起こってくるあらゆる出来事は自らの心が引き寄せたものであり、すべては心が描いたものの反映である。 それを著者は、この世を動かす絶対法則だという。 だから、どんな心で生きるか、心に何を抱くかが、人生を大きく変えていく。 それは人生に幸せをもたらす鍵であるとともに、物事を成功へと導く極意でもあるという。 つねに経営の第一線を歩きつづけた著者が、心のありようと、人としてのあるべき姿を語り尽くした決定版。 よりよい生き方を希求するすべての人たちに送る、「稲盛哲学」の到達点。 投稿者: 夏の雨 - 最近理不尽な事件が多い。 何の罪もない人や子供たちが犠牲になる。 そのことにやりきれない思いを感じる。 一方、事件を起こした人の心の闇の深さに呆然となる。 一体どのようにしてその心の闇は生まれたのだろうか。 そんな時、京セラの創業者で現在名誉会長である稲盛和夫氏のこの本を読んだ。 その冒頭にこうある。 「人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。 」 だから、「心に何を描くのか。 どんな思いをもち、どんな姿勢で生きるのか。 それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクターとなる。 」 生きていくことは一筋縄ではいかない。 稲盛和夫氏も今でこそ多くの賛辞を得ているが、そこに至るまでには多くの波乱があったことは、稲盛氏は多くの著作の中で書いている。 そうして、たどりついた思いは、心が持っている強い力。 誰もが稲盛氏になれるわけではないということはわかっているが、少なくとも稲盛氏が教えることを素直に聞くことが、人生を意味あるものにするのではないだろうか。 稲盛氏はこの本で「人生の目的」をこう語っている。 一つは「心を高めること」、これは魂を磨くことだという、そしてもう一つが「利他の心」で生きることだという。 稲盛氏の著作は一度読んでそれで終わりではない。 人は時に傲慢になり、怒り、欺こうとする。 だから、何度も稲盛氏の著作を読んで、心をきれいに保つしかない。 稲盛氏は最後に「いまどんなにつらい境遇にあるとしても、それにめげることなく、気負うこともなく、ただ前向きに歩んでいってほしい」と書いている。 きっと多くの人の心に届く言葉であるだろう。 」と題されている。 2019年末で長年主宰してきた盛和塾も終了するという稲盛氏の集大成ともいうことができるのかもしれない。 いかに「心を高める」ことが重要なことなのかを滔々と述べ、美しい心がよいことを引き寄せると書く。 そこには仏教の教えをときに引きながら説明され、論理的な説明は薄いが、自らの経験と結果を通してそれは示されているのだと説く。 集大成ということですべてをまとめるというよりも、できるだけ平易に多くの人に自らの考えのエッセンスが届くようにという想いで書かれているように感じる。 そのエッセンスは次の通りだ。 「いま多くの人たちに伝え、残していきたいのは、おおむね一つのことしかありません。 それは、「心がすべてを決めている」ということです」 そして、すべてのことが自責によって起こっているものであるのだから、それは受け入れるべきものであり、さらに心を高めるための切っ掛けにすべきものなのである。 「人生とは心が紡ぎだすものであり、目の前に起こってくるあらゆる出来事はすべて、自らの心が呼び寄せたものである」 さて、この本を読んで何を思ったかというとックス・ウェーバーの古典『プロテスタンティズムと資本主義の精神』いわゆる『プロ倫』のことだ。 「心」が大切だという稲盛氏の言葉が、プロテスタントの教えが資本主義の発展につながったと論じた『プロ倫』に書かれていることとを現代において示していると感じたのだ。 『プロ倫』でウェーバーは、利益を求める活動が市場で調整されて発展するとされる資本主義が、自らの利益のために活動することを是とするような考えの下ではなく、逆に禁欲的なプロテスタントの社会で発展したことについて、その禁欲的な教えこそが逆説的に資本主義の発展につながったということを示した。 「自分が持つ才能や能力は、けっして自分の所有物ではなく、それはたまたま自分に与えられたものにすぎない。 私がやっている役割を他のだれかが演じても、何ら不思議はないし、私の能力も、私のものでなくてもいっこうにかまわない。 だからこそ、それを自分のためだけに使うのではなく、世のために使うようにしよう - そう考えるようにしたのです」 上記の考えは京セラが上場を果たし、多額の財産を手に入れたときに稲盛氏が考えたことだという。 全員が自らの利益を求めて行動することで資本社会が発展するとした資本主義の理論とは異なり、禁欲的な考え方こそが資本の再投資を促し、価値の蓄積に努め、資本主義の発展につながった、というのが『プロ倫』の分析である。 稲盛氏のここでの考え方は、まさにその考えと相同ではないか。 特に次の言葉は、『プロ倫』の鍵となる「天職」の概念にも結びつく。 「天職」は神により与えられたものであり、人々の義務はその「天職」を通してできる限り多くの貢献を行うことであり、利益が世の中の役に立ったことの証拠ともなるという考え方である。 「私たちが自分のものと考えているものはみんな、現世における一時的な預かりものにすぎません。 また、その真の所有者がだれであるのかを私たちは知る由もない。 そうであるからこそ、私たちはそれを自分のためでは���く、世のため人のために使わなくてはならない」 プロテスタントの基軸となるカルヴァンの予定説は、ある意味で神の超越を示すもので論理的な教えであるが、一方でキリスト教徒を不安にさらすことになった。 なぜなら、この世で功徳を積むことで天国に行けるのではなく、天国に行けるかどうかはすでに決まっている中で日々教えに沿って行動せよというものであるからである。 その中でプロテスタント教徒は、自らに与えられた「天職」を一心にこなして社会に貢献することで、そういうことができているという事実が自らが神に選ばれたものであることを示すものであると考えることで心の平安を手にしたのである。 天職への没頭によって「魂を磨くこと」こそ、予定説によって不安に苛まれることとなったプロテスタントが一心に行ったことに他ならない。 そして、だからこそその仕事への打ち込み方は際限がなく、これだけ儲かったから十分だとするのではなく、またその利潤を放蕩するのではなく、次の投資に回して事業を大きくすることにつながったのである。 本書の中の次の文章は、まさしく『プロ倫』の「天職」の概念をそのもののように写し取ったかのようである。 「このように、目の前に与えられた仕事を懸命にこなすことが、何にもまして心の修養となる。 日々の労働によって心はおのずと美しく磨かれ、人格は陶冶されていくのです」 「天職」という言葉は、勝ち目の薄い業界の中で驚異的な成功を収めたナイキ創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』にも出てくる。 利益の追求よりも「天職」が大いなる成功につながることが示される。 フィル・ナイトは自著の最後近くで次のように語る。 「20代半ばの若者に言いたいのは、仕事や志す道を決めつけるなということだ。 天職を追い求めてほしい。 天職とはどういうものかわからずとも、探すのだ。 天職を追い求めることによって、疲労にも耐えられ、失意をも燃料とし、これまで感じられなかった高揚感を得られる」 フィル・ナイトは靴という「天職」を見つけたことによって、彼自身の欲望の枠を超えてナイキという会社を大きくすることができたのである。 2007年5月に資本主義の私欲の塊が渦巻くような東京証券取引所で稲盛氏は次のように語ったという。 こちらの言葉も本書の内容とほぼ同じであるが、より一層『プロ倫』との内容の相似性がよくわかる。 「『半導体が勃興していくには、ある人間が必要だった。 たまたまそれが「稲盛和夫」であっただけで、ほかの存在が「稲盛和夫」と同じ才能を持っていれば、その人が代行していてもよかったはずだ。 私が一介のサラリーマンであってもおかしくはない』 つまり我々が生きている社会は、壮大なドラマだと思うのです。 劇場です。 その劇場で、たまたま私は京セラという会社をつくる役割を担い、京セラという会社の社長を演じることになった。 ただし、それは『稲盛和夫』である必要はなく、そういう役割を演じられる人がいればよい。 たまたま、私であっただけなのです。 今日は主役を演じているけれど、明日の劇では別の人が主役を演じてもよい。 にもかかわらず『オレが、オレが』と言っている。 それこそが、自分のエゴが増大していく元にな��ように思うのです。 自分の才能は、世のため人のため、社会のために使えといって、たまたま天が私という存在に与えたのです。 その才能を自分のために使ったのでは、バチが当たります。 nikkei. したがって、稲盛氏の言葉が宗教に近しい色を帯びるのは必然のことのように感じる。 それは、自らの心を高めるだけではなく、周りも同じように心を高めることを要求する。 「十分に魂が磨かれ、清らかで美しい心で生きているならば、まわりにいる人の心も同様に美しくなっていくはずです。 言い換えると「信者」である必要がある。 救われるのは、彼らが信者であるからである。 本書の中でも悪しき心を持つ人にはかかわらないのが最善の策とも言い、結果、信者であれば救われるというものである。 「京セラが株式上場を果たし、思いがけない大きな資産を持つにしたがって、私は少なからず戸惑いを覚えるようになりました。 そこで、財産とはけっして自分個人の持ち物ではなく、社会から一時的にお預かりしたものにすぎないと思うようにしたのです」 上記は、正しく資本主義の精神として、プロテスタントの資本家が当初持っていた心意気でもあった。 「本書で再三述べてきたとおり、人生は心のありようですべてが決まっていきます。 それは実に明確で厳然とした宇宙の法則です」 いわゆるそれが「宇宙の法則」であるわけはなく、そもそも人生のすべてが心のありようで決まるようなものではない。 「宇宙の法則」だから正しいというのでは循環論法だと言われても仕方がない。 「生存者バイアス」というものを知っている人は、多くの失敗者の中でたまたま成功した人の経営ポリシーがこうだったということだと諒解するものもいるかもしれない。 しかし、京セラを起業してグローバル企業に成長させ、第二電電を成功させ、JALの再生まであの短期間で成功させた実績について、それをもってたまたまであるとかその教えを「生存者バイアス」の結果であるなどとするべきではないだろう。 さらに「心」について考えを進めるといくつかのことがわかる。 「いかなるときも自分の心を美しく、純粋なものに保っておくということが大切です。 それこそが自分の可能性を大きく花開かせる秘訣であり、幸福な人生への扉を開く鍵なのです」 「美しい心」とはいったいどういうものを指すのか。 「美しい心」を、「私心のない心」と言い替えてもおそらく大きな間違いはないだろう。 では、「私心のない」とはどういうことか。 「利他を動機として始めた行為は、そうでないものよりも成功する確率が高く、ときに予想を超えためざましい成果を生み出してくれます」 なぜ「利他を動機として始めた行為」は成功率が高いと言えるのだろうか。 正に、ここでも『プロ倫』での分析がその理解に役に立つ。 利己的な経済主体が自己の利益のみを望んで市場で行動することで全体的な最適化が実現されるという資本主義社会が利己的である程度先進的でもあった中国を始めとしたその他の地域ではなく、利他的ですらあるプロテスタントの社会で逆説的にまず実現されたのか、を説明したのが『プロ倫』であった。 まさしく、利他、ときに社会の発展を目的とした場合それは、利潤はその目的の達成のための手段となり、利潤の蓄積自体が目的となる。 それ自体が目的となった利潤の追求は留まるところを知らず、予想を超えた成果をもたらすことになる。 稲盛氏の考え方が宗教的かと言われれば、「宗教的」とは何かという問いはあれこそすれ、おそらくは間違いなくYESと言ってよいだろう。 それが、実利的で世俗的なビジネスと結びつかないのかと言われると、答えはそれどころではなくだからこそ成功したのだと言うことができるのである。 それは、ここで見たように資本主義の誕生の頃から、動力として思想があり、よくありたいとする心による際限のない達成があるからである。 信念と言い換えてもよいかもしれないが、いわゆる利己的ではない心が、結果として資本主義社会における成功をもたらすのは、意外なことでも、その信念が美しいために天が味方をしてくれるからでもないのである。 その集団が合わせて同じように心を高めることができるのであれば、成功は当然の帰結となるのである。 「人生の目的とは、まず一つに心を高めること。 いいかえれば魂を磨くことにほかなりません」 そして、信じるものは救われていくのである。 心がすべてを決めている・つくり出している・呼び寄せている 利他の心。 私心はないか、動機は善か 燃える闘魂 真我。 真・善・美 感謝。 なんまん、なんまん、ありがとう 成長発展、調和を保つ 足るを知る かならずできる 正道を貫く 師、家族、他力 中村天風 これまでの著書と重複する内容で、新規なものはないが、より平易に説明されていると感じた。 成功法則というよりも、結果に関わらず、このように生きたいと思う勇気をくれる。 ただ、あれよりはマシなど条件つきの見方での感謝の面が感じられた点は、どのような状況の中でも前を向ける心への気づきそのものに感謝したいと思った。 哲学とか宗教など、心の支えがない現代人にとっては「素晴らしい経営者の言葉」は拠り所になるのかも。 自己中心な勘違い野郎じゃなくて、稲盛さんみたいな「利他」を大事に謙虚な姿勢と正しく美しい心が大事!という人の言うことを、人々が評価し目指すのはありがたいことだなと思う。 下記心の中にメモ。 ・常に前向きに感謝の心を。 ・「ありがとう」は「あり難い」、つまりはありえないこと…あるのが難しかったということ。 あなたの助けなしではあるのが難しかったということ。 30年間くらい普通に使ってたけど初めて意味を知った…! ・正しいと思うことにしたがう。

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