枕草子 あらすじ。 2分で読む枕草子/現代語訳/第1段「春はあけぼの」、第2段「ころは」

枕草子/清少納言【あらすじ・現代語訳・簡単な要約・読書感想文・解説】

枕草子 あらすじ

悲しき定子の境遇 (原文) 大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。 999年、一条天皇の子を妊娠した藤原定子は、出産のため内裏を出て中宮大進という役職の平生昌の元へ向かうことにしました。 定子は一条天皇の妃であり中宮と呼ばれていました。 そして、朝廷内では中宮職(ちゅうぐうしき)という中宮に関する事務、お世話をする部署がありました。 中宮職は、偉い順に中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)、中宮亮(ちゅうぐうのすけ)、中宮大進(ちゅうぐうたいじょう)となっています。 なぜ中宮大夫の家にいかないの? 実は、この冒頭の文章から定子の抱える深い闇を垣間見ることができます。 定子が妊娠のために向かったのは中宮大進という役職だった平生昌のところでしたが、なぜもっと役職が上の中宮大夫の下へ行かなかったのでしょう。 詳しくは前回の記事(清少納言の枕草子を読むなら藤原定子のことを絶対に知っておけ!)を参考にして欲しいのですが、定子は一度出家した身。 出家者とはいわば、家を捨てた者ですから、そのような者が内裏(天皇のいる場所)の中へ入ることは一般的にタブーとされていましたが、一条天皇の強い意向もあり半ば無理やり定子を参内させていました。 このような事情があるため、定子の参内に批判的な意見も多く、どうやら定子の下で働く中宮職はあまりいなかったようで、中宮大夫もいなかったようです。 定子は再び内裏に戻ることはできたものの、昔のような栄光は既になく、おそらく内裏の中でも肩身の狭い思いをしていたことでしょう。 (定子が凋落している間に、一条天皇に急接近し力をつけたのが藤原彰子という人物で、源氏物語を書いた紫式部が仕えた人物になります。 ) 中宮大夫ではなく中宮大進の下へ行かざるを得なかったところに定子の複雑な状況を察することができます。 そんな状況の中で枕草子の物語は進んでいきます。 家が貧相だからリフォームすんぞ! 中宮大進という役職は、決して身分の高い役職ではなかったため平生昌の家はそこまで立派な家ではありませんでした。 そんな家に定子が来るということで、生昌は門をリフォームすることにしました。 なぜかというと、定子は一条天皇の妃ですから、当然御輿(みこし)に乗って来るわけです。 ということは!、御輿がちゃんと通れて、しかも中宮が通るに相応しい門にリフォームする必要があったのです。 それが原文中の「東の門は四足になして」という部分。 門の柱を4つにして門を立派にしていたのです。 女房「家が貧相なせいで恥をかいたわ!」 (原文) 北の門より、女房の車どもも、まだ陣のゐねば、入りなむと思ひて、 定子が平生昌の家に行くということで、定子の世話人も一緒に生昌の家に行くことになりました。 この世話人のことを「女房」と言います。 中宮の女房ということで身分の高い人たちが多かったわけですが、「人に見られるのが嫌だから門番が来る前に北門からこっそりと入ってしまおう・・・」と思ったわけです。 (原文) 頭つきわろき人も、いたうも繕はず、寄せて下るべきものと、思ひあなづりたるに 女房たちは、御輿で生昌邸へ入る予定でしたが、どうせ建物の入り口ギリギリのところで降ろしてもらう予定だから誰にも見られないわ!・・・と御輿の揺れで乱れた髪を繕(つくろ)うこともしていませんでした。 これが女房たちにとって大きな誤算となります。 (原文) 檳榔毛の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道敷きて下るるに、いと憎く腹立たしけれども、いかがはせむ。 殿上人、地下なるも、陣に立ちそひて見るも、いとねたし。 ところが、北の門は小さかったため、女房たちの御輿が入りません。 緊急事態! どうしようもなくなった女房たちは仕方なく、道に敷物を敷き、その上を歩いて生昌邸へ入ることになりました。 そのみすぼらしい様や乱れた髪を見られることになることがとても憎らしいし腹立たしいが、もはやどうしようもない。 身分の高い人・低い人多くの人に見られてとても癪に触る出来事でした。 ディスられる生昌 (原文) 「されど、それは、目馴れにてはべれば。 よく仕立ててはべらむにしもこそ、驚く人もはべらめ。 」 「さても、かばかりの家に、車入らぬ門やはある。 見えば笑はむ」などいふ程にしも、 「これ、参らせ給へ」とて、御硯など差し入る。 「いで、いとわろくこそおはしけれ。 など、その門はた、狭くは造りて住み給ひける」といへば、笑ひて、「家のほど身のほどにあはせてはべるなり」といらふ。 と 「そうは言っても、生昌邸の人たちは、あなたたちのことを見慣れていますから、あまりに身繕いをしすぎると、逆に驚かれてしまいますわ。 」と答え、その後、清少納言は女房たちと「それにしても、これほどの家なのに御輿が入らない門があるなんて、今度生昌に会ったら笑ってやりましょう」と話をしていました。 すると、ちょうどタイミングよく?当事者である平生昌がやってきました。 「あの・・・宮様(定子)にこれをどうぞお渡しください」と生昌は、清少納言に箱を渡しました。 すると清少納言はこんなことを言います。 「なんとタイミングの悪い!ところで、なぜ北の門はあんなに狭いのですか?」生昌は笑って「身の丈にあった家ですから」と答えます。 博識な清少納言 (原文) 「されど、門の限りを高う造る人もありけるは」といえば、「あな、おそろし」とおどろきて、「それは、于定国がことにこそはべるなれ。 旧き進士などにはべらずは、うけたまはり知るべきにもはべらざりけり。 たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られはべる」といふ。 「その御道も、かしこからざめり。 筵道敷きたれど、皆おちいりさわぎつるは」といへば、「雨の降りはべりつれば、さもはべりつらむ。 よし、よし。 また仰せられかくることもぞはべる。 まかり起ちなむ」とて、往ぬ。 「何事ぞ。 生昌がいみじう怖ぢつる」と、問はせ給ふ。 「あらず。 車の入りはべらざりつること言ひはべりつる」と申して、下りたり。 清少納言「でも、門だけを高く造った人もいたではありませんか」 生昌「いやー、恐れ入りました。 それは于定国のことですね。 年功を積んだ者でなければ、そのようなことは普通わかりませんよ。 私もたまたま漢字の道に携わっているものですから、故事で聞いたことがあるぐらいなんですよ」 清少納言「あなたの道も大したものではございませんわね。 ここへ来る途中(御輿が入らないから)敷物を敷いて道を歩きましたが、凸凹すぎて大慌てしたものですよ。 」 と生昌をからかうと、生昌は「雨が降ったので、そのようなことがあったのかもしれませんな。 よしよし、これ以上何か言われるとたまりませんから、そろそろ退散しますかな」と言ってその場を離れました。 おそらく、その場を離れた生昌とすれ違いでもしたのでしょう。 定子がやってきて清少納言にこんなことを言います。 「何かあったのでしょうか?生昌が大層怖がっていましたよ」 すると清少納言は「何もありませんでしたわ。 ただ、門が狭いという話をしていただけです。 」と話をしてその場を後にしました。 博識でウィットに富む清少納言 以上が、今回紹介する枕草子の内容になります。 生昌との冗談を交えた会話や、于定国(中国の人)の話をするところなんかは、清少納言のユーモアと知的さを感じることができますね。 実はこの時、定子はとてもこんな冗談を言ってるような場合ではありませんでした。 藤原道長の嫌がらせ 定子は一条天皇の妃(中宮)です。 中宮が妊娠をし、そのために内裏から他の家へ引っ越すのですから、通常であれば多くの貴族たちが中宮のところへ馳せ参じるはずでした。 しかし、これを妨害した人物がいます。 それが 藤原道長です。 藤原道長は定子の兄である藤原伊周を蹴落として権力の頂点に立った男です。 道長は定子に代わって自分の娘である藤原彰子を一条天皇の妃にしようと考えていたので、定子の存在は邪魔以外の何者でもありませんでした。 藤原道長は、定子が生昌邸に行く日をあえて選んで、宇治の別荘(その後、平等院鳳凰堂が建立する場所です)へと遊びに出かけます。 道長は当時の最高権力者であり、貴族たちも道長が定子を疎ましく思っていることを知っていました。 定子の生昌邸入りも道長の宇治への旅行も貴族たちにとっては一大イベント。 貴族たちは、どちらに参加するかを考えなければなりません。 ・・・何が言いたいかというと、道長は貴族達に「定子を選んだらどうなるかわかってるよな?」と無言の圧力をかけていたのです。 結局、道長と同行する人は多くはなかったものの、道長と敵対したくない貴族たちは定子の下へ行くこともしませんでした。 こうして、本来ならば華やかな行事になるはずの定子の生昌邸入りは、とても質素で寂しいもので終わってしまいました。 明るすぎる枕草子 生昌の身分の低さや門が小さい話、そしてこの藤原道長の嫌がらせの話を全て合算してみると、今回紹介した枕草子「大進生昌が家に、〜」の段は、皮肉さを感じてしまうほどに明るいです。 おそらく、定子や清少納言はとても惨めな思いをしたはずです。 枕草子「大進生昌が家に、〜」の段は、冗談も交えた明るい話が多いですが、随所随所に定子の不遇さがにじみ出ています。 おそらく、清少納言はあえて一辺倒に明るい話にはせず、明るさの中に不遇・惨めさといったスパイスを加えることで、絶妙なユーモアを表現したのだと私は勝手に思っています。 これこそが、まさに「をかし」の文学だと思います。

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清少納言ってどんな人?年表や枕草子を小学生向けに簡単に解説

枕草子 あらすじ

清少納言はどんな暮らしをしている人だったの? 清少納言は、平安中期、藤原道長が力をつけていく時代の、一条天皇の中宮(後の皇后)「定子」に仕えた女官です。 定子さまは、非常に美しく、明るく聡明な人でした。 ですから、そのサロンは大いににぎわいました。 当時のサロンは、清少納言など才気あふれる女性たちが、知的な遊びをして楽しみ、ときには天皇や重役たち男性が訪れて話を弾ませる社交の場だったのです。 清少納言は、和歌の名家、藤原家に生まれます。 父は 「梨壺の五人」の1人で、すっごく有名な歌人 清原元輔でした。 また、曽祖父は、「百人一首」にも選ばれている『古今和歌集』の代表的歌人・ 清原深養父です。 本人、父、曾祖父すべて、『小倉百人一首』に歌が選ばれていますよ。 あだ名ですね。 平安時代の女性は、一部の高貴な人以外、本名は分からないことが多いです。 というのも、当時の女性は、親兄弟や夫など、家族以外に自分の名を教えないという風習があったからなのでした。 清少納言も、本名ははっきり分かっていないのですが、 諾子(なぎこ)という名だったという説があります。 彼女は、学者の家の娘という恵まれた環境で生まれ、さらに英才教育を受けて、その才能に磨きをかけました。 当時は、女性が学ぶとはしたないと思われがちだった白楽天などの 「漢詩」の教養もあったのです。 でも、なぜか和歌の才が、いまいちだったのでした。 2人の間に生まれた息子・橘 則長も歌人として知られる人ですよ。 清少納言は、その後、藤原棟世(ふじわらのむねよ)という人と再婚するのでした。 27歳頃、関白の藤原道隆にその才能を認められて、道隆の娘・一条天皇の中宮・定子に仕えることになります。 宮廷に上がっても、豊かな才能があるだけでなく、彼女は勝ち気で明るい持ち前の性格と機知に富む対応で、定子のお気に入りの女官になります。 紫式部とはライバル関係だったの? 清少納言は、一条天皇の初めの中宮・「定子」(道隆の娘)に仕えました。 一方の、紫式部は、一条天皇の次の中宮「彰子」(道隆の弟・道長の娘)に仕えます。 仕えた女主人が、権力的にライバル関係にあったわけなのですが、実は、この2人が宮廷にいた時期はわずかにズレていて、面識はなかったのです。 清少納言は、定子が出産が原因で亡くなった後、1001年に宮廷を去っています。 そして、紫式部が宮廷に上がったのは。 、1005年のことでした。。 でも、うわさは聞き及んでいたようで、紫式部は清少納言のことを、「したり顔にいみじう侍る人」(『紫式部日記』)と書いています。 「得意顔で偉そうにしている人」ってことですよ。 悪口です。 「日本初の随筆「枕草子」はどんな作品? 「枕草子」は、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並ぶ日本三大随筆の1つです。 清少納言がすごいなーと思うのは、ちょっとした出来事や目にしたことに対する感受性の強さと幅広さです。 特に、「かわいらしいもの」「にくたらしいもの」などシリーズものの題材の集め方が、くすっと笑えたり、うんうんわかると共感できたりしておもしろいのです。 そんな風に、自然や人を鋭く観察して、感じたことをズケズケと言い放った、300ほどの章からなるエッセイ集なのです。 「春はあけぼの」 「夏は夜」 「秋は夕暮れ」 「冬はつとめて(早朝)」 有名な「冒頭」は、四季それぞれのもっとも映える「時間帯」を挙げています。 この「時間帯」でくぎるという視点が、新しいですね。 鋭い感性を感じさせます。 『枕草子』の大きな特徴は、定子の素晴らしさをとにかく称えているところ、つまり、没落していく定子の様子を一切感じさせないところです。 定子の父は、栄華を極めた中関白家(なかのかんぱくけ)の 藤原道隆でした。 でも、清少納言が宮廷で勤めて1年もたたないうちに、道隆は病死してしまいます。 そうすると、中関白家の栄華はあっという間に崩れ去って、権力は弟の 藤原道長に移ったのでした。 はかないものですね。 その後、定子は兄が左遷されて母を亡くし、一条天皇の寵愛をのぞいて、孤立無援の状態になってしまいます。 でも、 『枕草子』には、後宮のそのような暗い政治的背景は、一切描かれていないのです。 華やかな宮廷生活、定子を中心にしたたおやかなサロンの風景、そこでの機知に富む知的遊戯の数々・・・。 枕草子は、現実の一部分を切り取った一種の虚構の作品なのです。 清少納言は、後世の人々に、明るく聡明で美しい「定子さま」のイメージだけを、伝えたかったのかもしれませんね。 清少納言の簡単年表 清少納言の正確な生没年は、不明です。 記録によると、966年から1025年ぐらいではないかと推測されます。 10年ほどで離婚する。 清少納言、宮廷を去る。 夫・藤原棟世と共に摂津国へ下ったといわれる。

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BS朝日

枕草子 あらすじ

春は夜明けが良い。 だんだん夜が白んでいくうちに、山の上の空が少し明るくなり、薄く紫色に染まった雲が細くたなびいているありさま。 夏は夜が良い。 月が出た夜はもちろん、闇夜であってもホタルがたくさん飛び交っていると素敵。 またたった一匹や二匹が、ほのかに光って飛んで行く様子も趣がある。 雨の夜も捨てがたい。 秋は夕暮れが良い。 夕陽がさして、もう山の端に落ちるかどうかという時間、カラスが塒 (ねぐら)へ帰ろうと、三羽四羽、二羽三羽と飛び急ぐ姿ですらしみじみとさせられる。 まして雁などが連なって飛ぶのが大層小さく見えるのは趣深いものだ。 陽が沈んでから聞こえて来る風の音や虫の声などは、今更言うまでもないであろう。 冬は早朝が良い。 雪が降った朝はもちろんだが、霜が下りて真っ白になった朝でも、そうでなくとも、火などを急いで起こして炭を配ってまわる様子は、冬の朝の景色ならではのふさわしいものだ。 昼になって寒さが緩んでくると、火桶の火も白い灰だらけになってしまうのでみっともない。

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