イブ ガム。 パルガル・イブラヒム・パシャ

弐条海月の とはずがたり » Blog Archive » ロッテのガム「Eve」が復刻していた件

イブ ガム

復刻版「イヴ」 ロッテ「イヴ」 「男子禁制の香水ガム」 1972年発売、オリジナル「イヴ」。 多くの人の記憶に極めて鮮烈に刻みつけられているのは、これが当時としては類例のない「異端的商品」だったからでしょう。 キャッチコピーは「魅惑の香水 ガム」。 吐息にキンモクセイの香りを付加するというコンセプトで、女性限定的なゴージャスかつエレガントなパッケージで発売されました。 パッケージは何度 か変更されたようですが、発売時は縦置き型の金色の箱で、外観はまるで化粧品のよう。 価格も高くて、オスのガキにはちょっと手に取りずらい商品でした。 味 わいも、というか、商品の最大の特徴である香りも、従来のどんな食品とも異質。 まさに香水。 というより、「なんだこれ、トイレの芳香剤か?」というミもフ タもない感想をもらすガキまで続出するほど。 こうした唯一無二の商品特性と、それから、なんとなく「本当は男の子が触れちゃいけない感じ」みたいな、あ る種の背徳感とともに、「イヴ」は僕たちの幼児期の記憶に生々しく記録されています。 そういえば、「イブ」の話で盛り上がるのは、女性より、圧倒的に男の 方が多いような気がする。 で、その「イヴ」が現在、サークルKサンクス限定商品として、また数量も限定の商品として、ロッテから復刻されています。 現代の風潮に合わせてシュガー レス化した、というのはともかくとして、また、印象的な箱型ケースじゃなくて通常の包装になったことにも目をつぶるとして、「現代の嗜好性」に合わせて 「粒ガム」にしちゃった……というのは、かなりザンネンな感じがします。 お味、というか香りの方も、つつましく控えめ。 かつての「トイレの芳香剤かよっ!」的なインパクトはまったくなくなってしまいました。 う〜ん……。 まぁ、違和感のない「無難」な商品としてアップデートするという発想はわかりますけど、「イヴ」ってそもそも「無難」じゃないからこそ記憶に残る商品だっ たわけで、香りをウリにするガムが多数売られる現在、このレベルだと埋もれちゃう気がするんですよね。 記憶が曖昧なんですが、「イヴ」は外ケースから出した板ガムの「サヤ」のデザインが、なにやら異様なほどに凝っていたという印象があります。 これ、姉妹 品の「ローラ」(やはり香水ガムですが、こちらは「バラの香り」をウリにしていました)だったかも知れないんですけど、確か中央にアルフォンス・ミュシャ が描いたような女性のイラストがあって、色とりどりの無数の花が彼女を取り囲んでいる、という構図だったような。 その細かい描画に子どもながらに「すごい なぁ!」と感心した覚えがあります。 商品コンセプト、パケデザイン、香り、味、そのすべてから僕らは「イヴ」に「禁断の異世界」を感じていたわけです。 こういう衝撃、やっぱり復刻盤にもほ しかったですよね。 ロッテは今後も復刻ガムの企画を用意しているようで、次回に期待することにしましょう。 できれば「クイッククエンチ」を昔同様、ガム、 ドリンク、アイスの3種セットで蘇らせてください! (2010. 27) 復刻版「イヴ」のパッケージ。 かつてのパケを横置きにしたようなデザイン 粒ガム化されちゃいました。 薔薇色のカラーでかろうじて「イヴ」らしさを演出? あのちょっと怖い「イヴ」ちゃん(?)マークは健在.

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皆さんは、ロッテの「イブ」というガムを知っていますか?

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1493年に生まれ、1536年3月15日)にて死去。 別名 フレンク・イブラヒム・パシャ (西洋人)、 マクブル・イブラヒム・パシャ (寵臣)、のちには内でのをもじって マクトゥル・イブラヒム・パシャ (処刑された)とも呼ばれる。 イブラヒムはとして生まれ、幼いうちにオスマン帝国にとして献上され、成人前のスレイマン1世の親しい友人となった。 1523年スレイマン1世は、 ()の後任として、イブラヒムを大宰相に指名した。 ピリ・メフメト・パシャは、スレイマン1世の父で前スルタンのにより1518年に大宰相に指名されていた。 イブラヒムはその後13年間に亘り大宰相の任にあり、他の大宰相に比してもまれにみる権限と影響力を誇ったが、1536年にスレイマン1世の命により処刑され、その財産も国家により没収された。 生涯 [ ] イブラヒム・パシャは、領だった北部のパルガの、信者の家庭に生まれた。 父親はパルガの漁師だったという。 子ども時代にに誘拐され、奴隷としての宮殿に売られた。 マニサ宮殿では(シェフザーデ)が養育されていた。 そこで彼は、同年代の皇太子スレイマンと親しくなった。 イブラヒムはオスマン帝国宮廷(エンデラン)で教育を受け、となった。 彼はかなり早い段階でに改宗していたが、キリスト教徒としてのルーツを完全に捨てたわけでもなく、キリスト教徒の両親をオスマン帝国の首都に住まわせてもいた。 1520年、スレイマンのオスマン帝国皇帝()即位に際し、イブラヒムも皇帝の鷹匠頭(シャーヒンジュラル・アー)を筆頭に、さまざまな地位を得た。 彼は軍事面や外交面で手腕を発揮して、異例の早さで昇進した。 その早さは、地位獲得を画策する他の高官()の嫉妬や敵意を買うことを恐れて、これ以上の昇進をさせないようイブラヒム自身がスレイマン帝に願わなければならないほどだった。 イブラヒムの謙虚な態度に満足したスレイマンは、自分がスルタンの座についている間は決してイブラヒムを処刑しないと誓ったと言われる。 大宰相の指名を受けた後もイブラヒム・パシャは、総司令官(セラスケル)などさらなる称号の指名を受け続け、オスマン帝国における彼の力はスレイマンとほぼ同等にさえなった。 1524年にライバルだったエジプト州総督(・)のハイン(反逆者)・アフメト・パシャがオスマン帝国への反逆罪で処刑されると、イブラヒム・パシャは1525年にエジプトに駐留、市民制度や軍政制度を改革した。 彼は法令集()を発布し、その制度について告知した。 イブラヒムは、の娘でスレイマンの妹 ()と結婚したとされているが、現在ではこの説は否定され、イブラヒムの結婚相手は最初の主人であったイスケンデル・パシャの孫娘ムスフィネだとされている。 ただし同名のやとの区別がつけにくいため、歴史家はこの称号を多用していない。 彼は通常、その嗜好や物腰から「パルガル(パルガの)・イブラヒム・パシャ」「フレンク(西洋人)・イブラヒム・パシャ」と呼ばれる。 さらに彼と同時代の人々は、的に「マクブル(寵臣)・マクトゥル(処刑された)・イブラヒム・パシャ」とも呼んだ。 1536年の条約の草案。 フランス大使とイブラヒム・パシャが交渉したもの。 この数日後にイブラヒム・パシャは処刑された。 1518年以前にからが譲り受けたエジプト州における特権の適応範囲を、オスマン帝国の全領域に広げるという内容であった。 外交面において、イブラヒムが西キリスト教国に対して振るった手腕は見事だった。 自身を『オスマン帝国の真の力』と称し、イブラヒムはさまざまな戦略を駆使して、カトリック勢力の主導者たちと渡り合った。 の外交官は、スレイマン1世の呼び名『壮麗帝』をもじって『壮麗イブラヒム』とさえ述べた。 1533年、イブラヒムはと和睦交渉し、ハンガリーをとした。 1535年には、との合意に達し、に対する共同戦線を張る代わりにオスマン帝国内における通商特権をフランスに与えた。 この協定により1543年から1544年にかけての冬、南フランスのに艦隊が寄港した。 イブラヒムはをよく指揮したが、最終的にの討伐の戦役の間にスレイマンの寵を失った。 特に、自身の称号として「セラスケル・ スルタン」という語を採択したのが、スレイマンへの重大な冒涜とみなされたのである。 一方、サファヴィー朝討伐戦の期間にイブラヒムは、前財務長官(デフテルダル)イスケンデル・チェレビと、軍の指揮権や配置を巡って何度も衝突していた。 これらの出来事は、のちに起こるさまざまな事件の遠因となった。 イスケンデル・チェレビは、1535年に処刑された。 その1年後、大宰相に指名されて13年目の1536年に、イブラヒムは処刑された。 スレイマンは、自分の在位中はイブラヒムの命を奪わないという誓いを立てていたため、地元宗教指導者のにより、にモスクを建築することで誓いを取り消す許諾を得ていた。 イブラヒムの処刑の陰には、スレイマンの皇后の暗躍があったことを示唆する情報もいくつか存在する。 彼女の策略と、スレイマンに対する影響力の増加、また特にスレイマンの長男で王位継承者の1人 ()を、イブラヒムが支持していたことが関連すると考えられている。 シェフザーデ・ムスタファは1553年10月6日、父スレイマンの命により反逆罪で絞首刑となった。 ヒュッレム・スルタンは、の産んだムスタファではなく、自身が産んだ子の誰かが次期帝位に就くことを望み、さまざまな策略を巡らせたと言われる。 スレイマンは、イブラヒムの処刑を後悔していた。 20年経って彼が自作した詩の中に友情と信頼について強調した部分があるが、そこに暗示されているのはイブラヒム・パシャの特徴である。 テレビドラマ [ ]• トルコテレビの『』では、パルガル・イブラヒム・パシャ役をオカン・ヤラブクが演じている。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• Margaret Rich Greer, Walter Mignolo, Maureen Quilligan. , University of Chicago Press, 2007. , p. 41: "Ibrahim Pasha, his intimate and grand vezir, a Greek from Parga in Epirus"• Willem Frederik Bakker. BRILL, 1972. 312• Roger Bigelow Merriman. READ BOOKS, 2008. , p. University of Washington Press, 2006. , p. 230. Machiel Kiel. Variorum, 1990. , p. 416. Ostle, Robin 2008-10-14. Tauris. 2011年12月11日閲覧。 Translated by Willard Wood Harvard ed. Cairo, Egypt; New York: American University in Cairo Press. 191. Holt, P. ; Gray, Richard 1975. Fage, J. ; Oliver, Roland. eds. The Cambridge History of Africa London, New York, Melbourne: Cambridge University Press IV: 14—57. 『オスマン帝国』中公新書、126p• 観光局. 2016年5月2日閲覧。 Kinross, 230. 参考文献 [ ]• Fictional accounts of Ibrahim Pasha include Alum Bati's Harem Secrets 2008, Trafford, and 's The Wanderer 1949. , The Ottoman centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire , Morrow 1979 New York , 関連項目 [ ]• () - 元はパルガル・イブラヒム・パシャの邸宅。 オスマン帝国時代の私邸としては最大のもの。 公職 先代: () 1523年6月27日 — 1536年3月14日 次代: () 先代: 総督 1525年 次代:.

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皆さんは、ロッテの「イブ」というガムを知っていますか?

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おお、とんびさま^^。 これは昔ハマッたガムでしたね。 7のご回答者さまも仰られていますが・・・・確かパッケージは2種類あったのかどうかまでは・・・正直記憶が定かではないですが、 「長細い金色の箱」だったように思います。 そして包み紙が・・・・白くて真ん中がピンクの楕円形だったような記憶があります。 この包み紙にも香りがありましたので、いつも匂ってフガフガフガー!してました。 味と香りは・・・・40代の方がつける香水(パヒューム)のようだと、当時の私は感じていました。 「うう~ん、マッダ~~~~~ム」って感じのガムです。 連続して食べ過ぎますと、なぜか少しだけ気分が悪くなりましたけど。 このガムを食べながら目を閉じますと・・・・やっぱり40代後半の化粧を塗りたくった女性が、思い浮かんできます。 マッダ~~~ムが誘惑してきます。

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